西島三重子FanClub 「風」物語
FC「風」物語

           西島三重子ファンクラブ「風」会長 蛭田 春夫

はじめに……
 この物語に登場する数人の方々について、あえて実名を使わせていただきました。
この方々がその当時関わってくれたことにより今日のFC「風」があることに感謝する
ものであります。
第1話 新FC結成ヘ

 私は1980年12月16日、東京・九段会館で行われた西島三重子(以下みーちゃん)
のコンサートに行って以来ファンになった。
 今振り返ると、このコンサートが契機となったのだが、その当時、現在のような自分、
すなわちファンクラブ(以下FC)のスタッフになって運営するという展開になろうとはもち
ろん知る由もなかった。
 実は、このコンサートの2週間前に偶然見た深夜のテレビ番組「グラスハウス80」(テ
レビ東京系)に出演していたみーちゃんの印象がなぜか強く残っていて、その番組中に
予告としてあったコンサート情報に操られるがごとく、自然に九段会館へと足を運んでい
たのだ。
 このコンサートでは、知っている歌はなかったのだが、歯切れのよい声と温かみのあ
る歌に強く惹きつけられた。その残像は、帰りの電車のなかで増幅していった。
 その頃は「池上線」の歌があることさえ知らなかった。当時は「池上線」を聴いてファン
になるケースが多かったようだ。つまり、私はかなり遅れていたのだ。それはともかく、
以後のコンサートには欠かさず出かけた。

 83年5月1日、埼玉・大宮商工会館ホールでのコンサートの時に、たまたま隣の席に
いて声をかけてきたのが折井隆さんという方だった。以前私の姿を見かけたことがある
と言ったが、私にとってはこの時が初対面だった。
 コンサート終了後、帰りの車中でも一緒になった折井さんから「今度『西島三重子新聞』
を一緒に作りませんか?」と、自ら作ったというガリ版刷りの新聞を見せてくれた。それは
その前の年(82年★月★日)の芝郵便貯金ホールでのコンサートの模様を詳細に記載し
たものだった。ずいぶん熱心な人だなと思ったが、今振り返ると、この時期の折井さんは
みーちゃんに対する思い入れが最も強かった。
 以後のライブでは必ず彼の姿を見た。いつしか親しくなっていた。
 85年、みーちゃんが今まで在籍していたテイチクから東芝EMIに移籍することになり、そ
れに伴って所属事務所「スタッフギャング」もやめることになった。
 同事務所が商業ベースで運営していた「FCイメージ通信」も続けられなくなり、事務所の
担当者から面識のあった折井さんに、ファン自ら運営するFCを作ってみないかという提案
があった(この連絡してきた担当者なしに現在のFC「風」はない。多謝多謝!)。
 折井さんはこれを快諾し、さっそく新FC結成準備委員会というものを作り、私にも参加を
要請してきた。私は、協力はするが、新FCが軌道に乗ったらスタッフをやめ一ファンに戻る
ことを条件に同意した。そして、数人の有志で新FCを結成するための準備にとりかかるこ
とになった。
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